第8話
さらばシベリア鉄道
大滝詠一から聞いたウラ話

★最初は太田裕美

全て敬称略です。ご容赦ください。
太田裕美のシングル盤が発売されたのは1980年11月21日でした。当時、太田は愛川欽也と共に月金でTBS系テレビにレギュラー出演していた関係で。よくテレビで流れていましたが、オリコンでは70位止まりでしたが、それまでチャートに恵まれなかった大滝にとっては初めてのヒット作でした。

♪さらばシベリア鉄道 - 太田裕美

(太田裕美盤シングルのジャケット)

★大滝詠一がセルフカバー

そもそもこの曲は、1961年にイギリスでヒットしたジョン・レイトンの「霧の中のジョニー」をオマージュした作品で、既に録音を始めていた大滝初のソロアルバム「A Long Vacation」に含まれる予定でした。ところが、録音してみたところ、女性が歌う方が良いのではないかと考え、太田裕美に提供することになりました。大滝自身のアレンジによるカラオケをデモテープ代わりにアレンジャーの荻田光雄に渡し、太田盤が作られました。その4ヵ月後の1980年11月21日にアルバムに先行して大瀧によるセルフカバーのシングルバージョンが、その年の10月21日にアルバムバージョンを含むアルバム「A Long Vacation」が発売されました。

♪さらばシベリア鉄道 - 大滝詠一
 (シングルバージョン)


♪さらばシベリア鉄道 - 大滝詠一
 (アルバムバージョン)


(大滝詠一盤シングルのジャケット)

★霧の中のジョニー

山下達郎が60年代のアメリカの音楽に憧れていたのに対して、大滝詠一はイギリスのヒットに興味を持っていました。大滝が中学生の頃にイギリスで活躍していた独立プロデューサーがジョー・ミーク Joe Meek でした。録音エンジニアーだったジョーがレコード製作を始め、最初の大ヒットが「霧の中のジョニー」で日本でも流行りました。

♪Johnny Remember Me - John Leyton

(日本盤シングルのジャケット)

さらばシベリア鉄道がこの曲に大きな影響を受けているのは明らかです。この特徴有る音楽は、日本のファンの間では「ジョー・ミーク・サウンド」と呼ばれていました。このサウンドの最大のヒットは日米はじめ世界中で流行った「テルスター」で、作曲もジョー・ミーク自身です。

♪Telstar - The Tornados

(日本盤シングルのジャケット)

★大滝詠一の語るウラ話

幸運なことに、大滝詠一とサシで話をする機会がありました。1980年のことです。この年の7月に、大阪の西田辺駅近くにあった輸入レコード店のオーナーの宮下静雄が30才の若さで急逝しました。仕事の都合で葬儀に参列できず、数日遅れで自宅にお参りにいきました。たまたま大滝詠一も同じ理由で来阪し、休業中だった店舗で音楽について話に花が咲きました。彼は椅子に座り、私は立ったままだったような気がします。
最初はお互いに好きだったサーチャーズの話などしていましたが、途中から彼は録音中のエンジニアーの話題になりました。60年代の始め、録音テープは多くても4トラックで、各楽器の音を個別に録音することが出来ず、各楽器の音がからみ合っており、このことを「回り込み」と言い、60年代音楽の特徴でした。80年頃は録音テープは最低でも16トラックで、各楽器の音を個別にクリアーに録音するのが主流でした。そこで、60年代の音作りを要求する大滝に対してエンジニアーたちは「大滝の音楽は音が汚い」と酷評されるとぼやいていたのが印象的でした。そして最後に、「今録音しているアルバムの中に、回り込みを感じられる曲が入るので、楽しみにすておいて下さい」と締めくくりました。
今から考えると、このアルバムは「A Long Vacation」のことで、収録曲の中で60年代サウンドと言えば、「さらばシベリア鉄道」ですので、彼はこのことを言っていた様です。

★宮下静雄と
 フォーエバー・レコード


大滝詠一や山下達郎が来阪の度に足繁く通ったフォーエバー・レコードのことを記録しておきます。レコードコレクターだった宮下静雄が自ら語ったところによると、「売るほど貯まったので店を開くことにした」とのことで、父親が経営する病院の1階を借りて1978年10月に店舗を構えました。亡くなったのが1980年7月ですから、わずか2年弱のことでした。後に難波に移転して営業は続きました。
身体障害者でありながら、冗談が好きで、明るくて、人を騙す事はできない正直なひとでした。住居は2階か3階で、自身のコレクションはそちらに置いてありました。奥様の手料理を頂いた記憶があります。


(店舗にて、多羅尾案内のXより)
左は山下達郎、右が宮下静雄