第4話
恋のテクニック
デモを担当したのは
デイブ・クラーク・ファイブ

★ジェリーとペイスメーカーズ

ジェリーとペイスメーカーズのデビュー曲で、1963年3月1日にParlophoneレコードから発売されました。ビートルズより一足早く4月11日に1位を獲得しました。ちなみに、ビートルズが初めて1位になったのは、この曲に続く「フロム・ミー・トゥー・ユー」でした。ヨーロッパ各地でもヒットしましたが、アメリカではビートルズがブレイクした後の1964年に9位となりました、

♪How Do You Do It - Gerry Amd The Pacemakers

(日本盤シングルのジャケット)

作詞作曲家であり、作家でもあるミッチ・マーレイ Mitch Murray の作品ですが、本来、この曲はジェリーとペイスメーカーズに書かれたものではなく、同じParlophoneレコード所属で、クリフ・リチャードに並ぶ人気のあったアダム・ファイス Adam Faith 向けでした。

当時、まだブレイク前でライブ活動とともに、求めに応じてレコーディングをしていたデイブ・クラーク・ファイブがこの曲のデモを録音しました。1962年の夏のことです。ただし、ヒットしたバージョンとは異なり、アダム・ファイスに合わせ、軽快でスキップをしたくなるようなアレンジだったそうです。ところがアダムは拒否しました。

ちょうどそのころ、Parlophoneレコードと契約を結んだばかりのビートルズのデビュー曲を探していた、プロデューサーのジョージ・マーチンがこの曲に目を付けました。ビートルズは新しいイントロをつける等大きくアレンジを変更し、1962年9月4日、初の正式レコーディングの初日にラブ・ミー・ドゥーとこの曲を録音しました。オリジナル曲にこだわったビートルズもこの曲を没にしました。幸い、この時のテープが残っています。

♪How Do You Do It - The Beatles

(収録されたAnthology 1のジャケット)

この曲が、ジェリーとペイスメーカーズのデビュー曲になったいきさつについて、ジェリーの語るところによると次のようでした。ビートルズに続いて、ブライアン・エプスタインはジェリーとペイスメーカーズと契約しました。ビートルズはこの曲が気に入りませんでしたが、マネージャーのブライアンはこの曲に着目し、まだレコード会社が決まっていなかったジェリーに聞かせ、ライブで演奏させていました。ブライアンはジョージ・マーチンをライブにつれて行き、ジェリーたちが演奏する「恋のテクニック」を聞かせました。気にいったジョージは彼等と契約することを決め、「ビートルズはこの曲を気に入らなかったが、君たちはこの曲をデビュー曲にしないか?」と勧めました。ジェリーはビートルズのアレンジをほぼ踏襲しました。

★デイブ・クラーク・ファイブも
ミッチ・マーレイの曲を発売

デイブ・クラーク・ファイブは「恋のテクニック」のデモと前後して、Piccadellyレコード向けに同じミッチ・マーレイの「ぼくは何でも知っている」"I Knew It All The Time"を録音し、.「電話でサヨナラ」"That's What I Said"のB面として1962年6月28日に発売していました。

♪I Knew It All The Time - Dave Clark Five

(イギリス盤シングルのレーベル)

なにぶん、まだビートルズがブレイクする前のことなのでまったくヒットしませんでした。日米では1964年にリリースされましたが、「グラッド・オール・オーバー」のヒット後でしたので、アメリカでは「ぼくは何でも知っている」をA面にし、53位まで上昇しました。

(日本盤シングルのジャケット)

★ミッチ・マーレイ、ヒットが続く

「恋のテクニック」を革きりに、その後数年間に渡ってヒットが続きます。
例えば、1963年8月に発売されたフレディーとドリーマーズの「好きなんだ」で、全英2位、全米1位を獲得しました。

♪I'm Tellin' You Now - Freddie And The Dreamers

(日本盤シングルのジャケット)

やがて、Peter Callanderと共作するようになりました。その中から日本でもヒットした2曲を紹介します。

まずは日本では1970年8月に発売されたヴァニティ・フェアの「夜明けのヒッチハイク」です。

♪Hitchin A Ride - Vanity Fare

(日本盤シングルのジャケット)

同じ1970年の9月にはクリフ・リチャ−ドの「グッドバイ・サム」が日本で発売されました。

♪Goodbye Sam, Hello Samantha - Cliff Richard

(日本盤シングルのジャケット)

★特約記者、ミッチ・マーレイ

当時、日本では作曲家としてのミッチ・マーレイはほぼ無名で、音楽雑誌『ミュージック』のイギリス特約記者として知られていました。このことは編集長だった星加ルミ子の活動を記録した「ビートルズにいちばん近い記者」でも触れられています。

(ミッチ・マーレイ)